CGでなにか作りたいものが自明の場合は、それをつくればよい。しかし、何もつくりたいものがないという人や、「作っても無駄だ」と言うような記号的な生産/消費のパイプラインに乗るものに懐疑的な人にとっても、CGには可能性が広がっているし、「想像しうるもの」を捨象できるという時点でアドバンテージがある。3DCGで何を描き出すかは本来自由であるし、世界に存在しえないものをいくらでも可視化できるという本来の特性に則れば、まだ見ぬ「仮想の存在」を作り出せるはずだ。

建築やデザインの領域では、デザイン活動自体への自己批判も多く見られる。人間がデザインしたものによって、人間の行動や考えが再帰的に自己組織化される。その結果こそが、現在の高度にデザインされながらも問題が山積している社会そのものだ。1 人間がデザインしたもの、例えばiPhoneが人間の行動を変容させたことは想像しやすいが、その結果生み出された人間の慣習の全てが果たしてよい進歩ととらえられるかは微妙であり、社会に新たな問題を生産し続けている。デザイン活動が新たな人間行動というデザイン上の問題を生み出すということは、記号消費、環境汚染、心疾患、紛争など具体的な事象を挙げればきりがないほど指摘できるし、根本的に思考様式や想像可能な空間──可能性の空間──も縮退させてはいないか、という議論も可能なのだ。

ダン&レイビーはこうした点を指摘し、解きほぐすための柔軟体操のようなエクササイズを提案し続けている。2 量子論的な現実解釈、不可能性の可視化、多元世界における人間のフォルム…など。その中での応答は華美な表現ではないが、想像という行為自体がうまくフォルムになっているように見える。Devon ReinaによるA Series of Pseudophysical Objects (2019) は、現実の時間層としての解釈として見ることもできるが、もしかしたら、その時間層自体もモノとして使えるのではないか?という可能性の連鎖が生まれているようで楽しい。

こうした作例こそ、CGで扱うべき題材ではないだろうか。こういった視点で簡単な作例を作ってみてほしい。既存の家具などの3Dモデルをデフォームしてみてもいいかもしれないし、一見繋がらなさそうなふたつの形状を無理やりつなげてみてもいい。ボールの動きを時間層、つまりチューブ状のものに見立ててもよいかもしれない。少ない操作から、既存のデザインでは文脈化されていない要素を積極的に見つけていけないだろうか。こうした観点を仮に批評的レンダリングと呼んでみる。3

冒頭に載せている作例は筆者によるレンダリングだ。地球は球(厳密には楕円球)のかたちをしている。一方で、自転しながら太陽のまわりを公転もしている。ちなみに自転周期は1日で一周だが、公転によって運行する距離は250万km (29.78 km/s)にも及ぶ。かなりのスピードで我々は空間を航行している。球が自転しながら円運動をしている様子を連続的に描画すると、球面の模様がテクスチャ的にトーラス上に描画できるはずで、つまりドーナツに世界地図をペタペタと貼っていくことになる。我々の直感的認知では有意な可視化とはならないかもしれないが、我々が移動していることを思い出しつつ、異なる時間相においては地球はトーラスだと言っても差し支えない。そういった空想、仮想の存在、シンプルな思考行為を現出させてみたかった。

Footnotes

  1. マット・マルパス「クリティカル・デザインとはなにか?──問いと物語を構築するためのデザイン理論入門」、水野大二郎、太田知也監訳、BNN inc.、2019年。

  2. アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー「ここでもなく、いまでもない──スペキュラティヴな思考、不可能性、そしてデザインの想像力について」、久保田晃弘監訳、BNN inc.、2026年。

  3. 原田裕規など、CGレンダリングにまつわるイメージ文化への批評的実践を展開する作家を思い浮かべてもよいかもしれない。 SuperStudioのように、CG以前に仮想のイメージ文化の開墾を試みた作家も多いだろう。