日本は世界的に評価された/ている作家が何人も出現しているにもかかわらず、欧米に比べてアーティストが活動し評価を得るにはハードな環境と言わざるを得ません。例えば、奨学や制作支援が乏しい、生き方として親類から応援を得られない、ネット界隈で「(笑)」をつけられがち(ポエム、メディアアーティスト、クリエイターなど)、一般に「アーティスト」として生きることは選択肢として非現実なものと考えられ、悪くすると批判の対象になっているように思います。

芸術、Artが学校名に冠されている教育機関であるIAMASにおいても、「アート」に対して懐疑的なスタンスをとる学生が多くいます。工学や社会実装系、デザイン系を志す学生にとっては、「アート」とは独りよがりのナルシシズムに映る点、またその活動自体が自己の欲求を満たすための閉じた行為になる点を批判するのが主な論点のように理解できます。「アート」的なものを実践する側自身もそうした他者の目線を少なからず自覚しており、声高に「アーティスト」と自称するのは憚られる、という感情があるのではないでしょうか。

しかし、欧州ではそのような捉え方は支配的ではなく、より広く社会に受け入れられ、社会に支えられ、同時にマーケットを作っているように見受けられました。今回のオーストリア、ドイツの研究旅行を経て、この点について日本との本質的差異を感じずにはいられませんでした。

私個人は、こうした状況に日本ヤバイ有り得ないと否定するつもりは無くて、おのおのの土地でおのおのの文化を育んできた帰結が今あるだけだと考えています。アートワールドにおいて日本では評価されず欧米からは評価される、またはその逆のケースがありますが、それはおのおのの文化基準での適合度の差であり、日本の批評・評価制度の欠陥を憂うものではないのです。

とはいえ、発展的なアート事情を目の当たりにすると、日本との差異は際立ちます。今回はこの差異について、実際に感じたことをまとめつつ考察したいと思います。統計や実際の数値比較をしていないので、あくまで私のバイアスが入りつつの個人的見解であることをご了承ください。

美術館・博物館の多さ

自然史博物館、博物館、美術館が多くあります。例えばパリ、ローマ、フィレンツェ、バルセロナ、ロンドン、ベルリンなどは言わずもがなの芸術コレクションを抱える大都市です。例えばベルリンにはMuseumsinsel(美術館島)という川の中洲がまるまる美術館・博物館で構成されている一体があり、それとは別にも大規模な美術館博物館が散在しています。首都より数段規模が小さい都市でも芸術を街の振興の中心にしている都市は多く(例えばドイツのカッセル、オーストリアのリンツなど)、そうした都市では半径2キロメートル以内に10近くもの美術館・博物館を持ちます。

これも文化発展の形の一つの帰結であると言えます。ベルリンやパリには、古代エジプト美術、ペルシア美術の大規模なコレクションがあります。ギリシア・ローマならまだしもアフリカや中東の美術が大量にあるということは何を意味するでしょうか。ルーブル美術館やベルリン美術館島で深く意識せず鑑賞できるこれらのコレクションは対外膨張戦争の歴史の過程で、現地から大量に買収・略奪し持ち帰ったものであり戦果の象徴でした。

また美術館・博物館でこうした収奪した戦果を展示する、ということは何を意味することでしょうか。市民革命以降、君主の資産を市井に鑑賞可能にしておくという市民階級の誕生が密接に関わっており、市民が芸術を鑑賞することができる、ということは市民革命で勝ち得たことであります。同時に、自国の技術の粋である芸術や戦果の証としての宝物を見ることは民族性を鼓舞することにもつながりました。

日本には、対外膨張からの収奪に古い歴史も、市民革命という象徴的な事件も歴史上には無いのです。日本にも豊富な美術コレクションと素晴らしい展示施設があります。しかしそれは、西洋から輸入したものなのです。例えば上野は明治期に輸入した西欧の考えに則って自国の文化をまとめて展示するために建立されものですし、西洋美術館の松方コレクションは典型的な明治期の資産家による西欧の文化資産と文化活動の輸入なのです。

企業によるアートコレクション/レジデンスの主催数

日本でもアートに対して継続的な取り組みをしている企業はありますが、コレクションを持ったり、アーティストインレジデンスをもったりする企業は欧米に比べて圧倒的に少ないです。ただこれも悲観することではなく、ヨーロッパに相撲力士が少ないことを指摘していることと同じ構造です。もちろん税対策の目的やマーケティング活動(寿司チェーンがマグロを落札するような)の目的もあるでしょうが、根幹は、欧米の宗教観や倫理観から、稼いだ資本を非経済活動としてのアートに還元することで、社会貢献もしくは贖罪の念を得ているように考えられます。

おそらく、好きな絵師・作家を持ち、好きな絵を鑑賞したいと思う気持ちは、日本でもかなり根からある感情ではあるものの、アート蒐集やアーティスト支援が、社会貢献につながると考えてはおらず、ともすると蒐集=強欲・贅沢であるという認知の方が強いのではないかと思います。

アート系の学位取得

これも体感にすぎませんが、MasterやPhDといった学位をとることがより一般的に思われます。日本では『「博士に行ったら就職難」どころか「大学進学=貧乏覚悟」』という大野佐紀子氏の述べる考えが一般認識かと思います。PhDの学位は、主にアーティスト/リサーチャーとして研究機関や教育機関でのキャリア選択で必要になってくると思われますが、そうしたポストの実現性(採用の母数や現実的な給与)が欧州では高く、日本では低いことと推察できます。

IAMASやInterface Cultureに参加しても博士課程を志している日本人は1人くらいしか知人にいませんが、欧州ではたくさんお会いしました。そもそも学費が無料なので、「貧乏覚悟」という認識はあっても、その絶望感は日本のそれよりはだいぶ少ないと想像できます。

ここでは欧州と日本をなんとなく比較していますが、もちろん国家数も違えば総人口も異なります。しかし興味深いのは欧州の場合はEUによって経済的だけでなく、教育における協定(学費無償など)でもつながっておりEU圏内で学生が行き来しています。日本語話者の人口自体はドイツ語やフランス語のそれよりも多いけれど、英語の普及率とEUのつながりのため英語学位取得コースが結果的にEU全体で日本と比べるべくもなく多くの選択肢があります。実際にInterface Cultureの学生を見ても、修士以降のキャリアを憂う人はおらずレジデンスや次なるキャリアのためにプロポーザルをゴリゴリと書いているように見受けられます。

政治/社会規範への問題意識

欧州では、自国もしくは他国の為政者を直接的に批判というかほぼ侮辱することが、行為として受け入れられています。(もちろん反感を買ったり、ときには警察に捕まっていたりするようですが。)逆に、日本においては、天皇制や政府政権、または仏教/神道といった宗教に対して直接的に批判をするような表現はまず見られません。特に公共の美術館がそうした作品を展示することは絶対に無いでしょう。しかし欧米では王族、教皇、政権に対する直接的な皮肉の表現が普通にあります。しかもそれらはマーケットの中に流通し、国際的な展覧会で展示されうるのです。

これもまた、欧米にあって日本にはない「アート」のあり方なのだと思います。この点も近現代の西洋美術史を俯瞰すると納得できます。ドイツでは第二次世界大戦が始まると、当時「前衛」とされたアーティストたちは専制的なナチス政権に反対の意を表明します。政権側も彼らの表現を認めず、退廃として弾圧し、悪くすると政治犯としました。市民全体がナチスに賛同する中、「アーティスト」たちは最後まで反意を表明し続けたのです。こうした前衛のアーティストたちは西側諸国、特にアメリカへ亡命し、その後、アートの中心はアメリカとなります。

戦後、彼らの活動と創作が権力にあらがった革新的表現としての前衛として再評価されます。ナチスによる表現弾圧への反省と否定があるために、戦時下の前衛のアーティストのような批判的姿勢を継承するものが「アート」だという考えが普及していると思われます。

ドイツの芸術祭dOCUMENTAでは、こうしたスタンスが明確です。dOCUMENTAはナチスによって失墜したドイツの文化的な信頼を取り戻すために「アート」の役割に意識的であり続けています。アメリカ、フランスといった芸術大国の作家をおさえ、新興国や途上国のアーティストを取り上げ、英語などの言語の拡大にともなって消え行く少数部族の言語をテーマとしたビデオドキュメンタリーといったような、大きな抑圧に抗う文化活動一般を取り上げます。もちろん気鋭のイケイケ作家・作品も紹介しすが、歴史の中で消えてしまいかねない亜種のような表現を過去に継承する(Documentする)という目的意識を展示から強く感じ取ることができます。

日本も戦争や右傾化に反対したアーティストがいたとこは事実ですが、欧米に起こった「前衛」とは異なります。むしろ芸術を志す人たちにおいていは、自身の表現の中で政治的スタンスを打ち出すのは賢くないと思われているのではないでしょうか。もしくは、そうした問題意識は自分たちの主題ではないと考えているように思います。他方で、名状しがたい抑圧や、複雑な精神のありようを繊細な感覚で表現すること、独特の倒錯感情やフェティシズムを具体的に表象させることにおいては非常に卓抜したアーティストがでてきていたのです。そしてそうした表現が行われる領域はFine Art(純粋芸術)でなく、より日常に溶け込んだ媒体(演劇、漫才、ゲーム、漫画など)や同人コミュニティやいわゆるサブカルなどにリアルな感性が集まっていたように思われます。

主催側と共同してアーティストも国の近現代の歴史を深く参照しています。
一例としてdOCUMENTA14で紹介されていた DANIEL GARCÍA ANDÚJAR というスペイン人作家の “The Disaster of War/Trojan Horse” という作品の一部を紹介します。

DANIEL GARCÍA ANDÚJAR, “The Disaster of War/Trojan Horse”, 2017.

一見すると、ワイヤーフレーム上に描かれた人物像であり初期CGアートを彷彿とさせますが、すぐにそれらは残酷に殺害された人たちであることがわかります。スペインの画家ゴヤがナポレオン戦争時に、トロイア戦争の歴史画のモチーフを借りてフランスの侵攻を批判した版画をさらに参照し、現代のコンピュータの表現として再構成した作品です。コンピュータ的な質感は現代を象徴していますが、そのテーマは古代ギリシア、ナポレオン戦争から「変わっていない」暴力を表象しています。
スペインは第二次世界大戦後もフランコによるファシズム政権が力を伸ばし、反対派の大規模粛清を行い、その支配は1975年まで続きました。1966年生まれの作家の原体験に影響があったことは間違いないでしょうし、彼もまたコンピュータという現代的な道具を与えられてなお、こうした主題を必然的に選択したのです。

まとめ

西欧においては「アート」は高度に社会実装されています。一方、日本は「アート」を実践する土壌においては西欧に遅れをとっていると言えますが、創作活動や表現の歴史の総体としての文化は同様に豊穣です。しかし「アート」という言葉を用いてしまうことで、参照が西欧中心のものとなります。国際的な価値基準が均質化し、西欧のそれと同じ土俵で議論ができるのは良い面もありますが、日本の創作や批評的意識の本質は「アート」ではないように思います。

今年のdOCUMENTA14には日本人の作家が紹介されていません。そのかわりに本屋チェーンThaliaでは芸術コーナーより大きいMANGAコーナーがあり当然ほとんどが日本のものですし、家電チェーンSaturnではスマホの陳列棚と同じくらいのスペースにNitendo、PlayStationの名を関したゲーム機やソフトがほぼ日本独占状態で売られているのです。そしてそれらは、日本の「文化」的資産だということは間違いないのです。(ちなみに海外のNetflixは日本のアニメが多言語対応で大量にある一方、実写の邦画はほぼない)

長々と書きましたが、言いたいことは2点です。1点目は欧州はアートを取り巻く環境が日本よりも先行しているけれど、日本の芸術系における制度の不備や受容のされにくさを嘆くのは本質的ではないということです。もちろん良きところは学び吸収していくべきです。ただ日本は「アート」を輸入してまだ間もないですし、また同時代にアートは進展していますが、西欧とは異なる歴史を経験してきているように思います。海外の歴史や姿勢に共感するならば海外活動を志向すれば良いし、日本には日本の独特かつ豊かな文化基盤(産業や受容のされ方)があるのだから、どちらを拠り所として参照するかの問題でしかないのです。

2点目は、日本のキュレーター/学芸員や地方自治体の振興課はdOCUMENTAまたはVenice Bienaleなど欧州の主要な芸術祭を参照して芸術祭を企画して地域振興を企図しているように思いますが、日本のアーティストや鑑賞者はそのような参照や前提となるマインドセットは持っておらず、キュレータとアーティスト、鑑賞者の問題意識および文化基盤の乖離が起きているように思います。果たして海外のコンテンポラリーアートの芸術祭を参照したものが日本文化をCultivateすることになるのか、また日本の作家の主題意識と沿うのかは懐疑的です。

本当はdOCUMENTAの感想を書くつもりだったけれど謎な文章に仕上がりました…