一時期、アートを制作しない人がアートの良し悪しを論じることに激しく嫌悪していた時があった。(コードを書かない人が開発を管理したりソフトウェアを売ったりする、楽器が弾けないのに音楽を語る。)つまり、成果物の制作プロセスを知らない、作り手の作品を成り立たせている審美や前提を知らないままそれを評することは、ただの外部からの戯言であり当事者の納得できる意見として成り立たないと考えていた。おそらくそう考える背景は、ものづくりを本気でやれていないのに、批評する論点だけを持っていた自分自身に対する嫌悪であったようにも思う。

今もその考えが全く無いとは言わないが、スキルセットや感性、価値観が異なる各人が技能を活かしてそれぞれの貢献をするのが尊いことだというのが基本スタンスだ。優れた批評が制作側にインスピレーションを与え成果物の質を上げることがあるように思うし、他者や外部からの意見を遮蔽していては当人も枯れてしまう。プロコンや様々な先人の知的参照の吸収を経て制作物の質がめざましく上がるというのはIAMASの修士研究時代に日常的に目にした。

アートに限らず批評行為が忌避される理由として、

といったことがあげられる。

確かに、政治や宗教、歴史認識、性における他者評価は、当人のアイデンティティや経済的、精神的な拠り所を脅かすことにつながるので、その防衛本能も高まり、リスクが高いと思われる。しかし、「アート」という媒体を取る場合、その議論が奨励されている場であるように思う。今日ではアート作品は単なる造形の提示でなく、議論を提起する目的がほとんどであり、その目的からすると鑑賞するだけで議論をしないということは黙殺に等しいとさえ言える。「アート」における批評や議論は、誰にも奨励されるし、自由が担保される。玄人は素人の批評を禁止できない。(逆も然り)そして、上で書いた議論しづらい政治や歴史認識等について議論する文脈を用意するというのはアートの重要なファンクションであることは間違いない。むしろ、「アート」が担保するべきは、自由な議論のドメインであり、それ以外の価値(造形的な審美やいわゆるポリコレとか)は重要な要素ではあるが本質ではない。「アート」においては様々な価値判断が歴史上存在し、更新も目まぐるしく起こったたために、論点は矛盾をはらみながら分岐し複雑化した。だから、議論の噛み合わなさを激しく助長する。であるならば、自由な議論のできるドメインという性質のみ、「アート」的であると認識するのが建設的に思う。

Twitterが非常に好きである理由の一つに、2つの対立する議論が双方見え、構造が隠蔽されないという点がある。とりわけ、(普段社会にいると議論されない、つまらないとさえ思えるような)アートに関する対立議論が顕在化していているのを見るとテンションが上がり嬉しくなる。直近の例は芸能人アートや、TeamLab Borderlessだ。特にTeamLabについては、当事者たちから様々な議論が飛び交っているにもかかわらず、これまで批評家が腰を据えて扱ってくれず、個人的にするどい意見を期待していた。

TeamLabとその言説について、様々な意見がTwitterで公開されていたので、引用させていただくことにする。私は展示を拝見していないので、あくまで評を評するだけのエアリプクソ野郎おじさんな立場となる。

おそらく大半の人にとっては「アートのため」の閉じた議論はダサいものに映る。私は、美術史を専攻していたけれど、その議論はどこかダサいものだという考えが常にあった。前述のように作り手のモチベーションと乖離があるからだ。評する側の常としてある程度のダサさを自覚しているように思う。私自身はそれを創ることで昇華した節がある。ただ、敢えて反論すると、私はアートの立場からは豊かな指摘をしてほしいし、それが重要な仕事であると思う。また、世界で展示をこなしてきたTeamLabも「アート」という文脈で議論されることを望んでいるように思う。

 

流されてしまいかねなかった論点を発してくれたことを非常にありがたく思う。アトラクションとしてのクオリティは圧倒的であり、実装における妙や、造形的な美しさについては、高い評価は頷ける。しかしこと「アート」としての議論をするならば、その意は問われるべきで、何を賛美しているともわからない盲目的なアイキャンディは批判されるべきである。一方で批評側には、いわゆる現代に要請される「アート」とその議論との隔たりはなんであるかの説明が待たれるところである。同種の議論として、Ryoji IkedaやRhizomatiksの作品がもたらす価値は何であるか、ただ単に”awesome”で回収するのでなく、人間の歴史を踏まえた議論は個人的に聞きたいことではある。というのも、こうした批評は、飲み屋でこそ頻繁に現れるがどれも表層の議論に終始し、深みある言説としてなかなか聞こえてこないからである。

 

おそらく、自分も同じことを思うであろう、素直な意見が述べられている。過去TeamLabの作品を鑑賞してきて自分も幾度と思ってきたことかもしれない。特に個人で制作をしている場合、やれることに限界を常に感じているので、経済的なハードルや実装上のハードルをクリアし、圧倒的なスケールを実現したこと自体に強いメッセージを感じ取る。この総合的な実装力が、TeamLabの作家性なのかもしれない。”Awesome”のパラメータは振り切れている。その軸に関して成果として破れる実力があるかと言われれば、世界を見回しても、大半の作家には無いかもしれない。彼らをして「これは芸術ではない」「アートとして優れていない」という趣旨の主張をするときに、強烈に自身へのブーメランが来る。また過去、政治と宗教のプロパガンダのために制作された、バチカンのミケランジェロによる天井画やベルリーニによる圧倒的インスタレーションなどのいわゆる「古典芸術」はなんであるかという謎を呼ぶ。

貴重な内部の意見。インタラクティブコンテンツを制作する者たちにとっては、TeamLabのとくにアート部門の実装者は一目おかれている。その実装力は作品のインタラクションで容易に証明されるし、TeamLab外で優れた活動を行っていることもまた有名である。VJ、外部での個展、技術コミュニティへの貢献と非常に価値のある活動をされている。私も何人かの活動は非常によく拝見しフォローさせていただいており、GPUプログラミングにおける日本語文献で極めて優れた書籍を同人誌として出版もされている。こうした活動の中心的な中の人が発する、内部の批判的な言葉は非常に興味深い。成果を出すたびそれがまた場を広げ活躍の場が指数的に大きくなるのは資本主義原理からすると非常に望ましいが、内部の疑問も浮上していることがうかがえる。逆説的に組織としての健全さを感じ取ってしまう。

最後にトップについて。過去、わたし自身も以下のプレゼンテーション(2013年)については非常に感銘を受けた。

作品解説を通して、CG、パースペクティブ、日本画の景、レイヤー、マリオの横スクロールなど、興味深いキーワードを用いて日本の空間認知の仮説を述べており、その意味では、非常におもしろい。いわゆる「美術史」的な論を踏まえた上で豊かな議論をしている。かつ際立った技巧を持ったCGアーティストによって実装された作品は美しく、少なくとも私自身の審美では外観も意味も非常に美しいものに感じられた。おそらく、日本画にインスピレーションを受けた巧みなCGアーティストがいて、かつ猪子自身の興味がそれを議論化させたように思う。世界に向けて売ること、アートマーケットへの野心的な戦略を内包しながら、興味深い議論を提供しているために、私はいたく感動したのを記憶している。

昨今の作品解説は他者との関係や近代都市を参照し興味深い面もあるが、やや散漫である印象をうける。ただ上記のディスプレイ面に描画される映像作品とは格段に実現の難易度もあがり、実現のための数々の困難をクリアした労を考えるならば、「アート」のための議論が貧困になったとしても、咎める者は少ない。

 

この文章もまた答えを導くものではなく、議論を提供するものとして機能することを念頭としている。私が個人的な意見を多く持っているわけではない。ただ、TeamLabが豊かな議論を生む良い対象であったのでとりあげさせていただいた。