はじめに

本稿は修士研究(学位論文)の前段のメモ書きです。修士論文は公開が限定的なので、せめてその執筆の前段階の進捗を可視化したり、色んな人の感想をもらったりする目的でこうしたメモを少しずつブログにポストしていこうと思います。
昨年度書いた、この記事この記事この記事は、修士課程に関連するテキストです。

研究の対象は、”Generative Art”です。この芸術実践は、見た目の審美性だけでなく、発生手法とその原理において優れた審美性を備えています。その複雑さ・壮麗さから視覚的に快感情をもたらすだけでなく、描画するための手続きが数学や計算機科学の素養が十分に備わっていない人間にも理解可能であるというところに素晴らしさがあります。このギャップへの驚きは私が「人生が変わるような発見」だと心が震えるほど大きかったのです。

今その出会いを客観的に思い返すと、自然、宇宙、生物の形体、もしくは過去の様々なアート作品と、発生原理から類似しているため心理学的な親近感(単純接触効果による報酬系の刺激)や、理解し得る範疇であるという過信と自己有能感もたらしていただけなのかもしれません。
しかし重要なのは、エクセルの表とにらめっこしていてもそのような報酬系の刺激は無く、むしろ眠気もしくは逃走本能がはたらいていたように思います。また、今こうして本稿を書いているのも上述の直感的な思いの強さのあらわれです。

研究のアウトライン

修士研究は、”Generative Art”の歴史研究、美学的側面に与えた価値の整理すると同時に、具体的に作品制作を行い現在進行形のスナップショットを示します。

1. 歴史研究、美学考察

Generative Artは、コードレベルで単純な規則を漸次変化するパラメータの上で反復することで、複雑かつ有機的なパターンを生成する芸術実践であり、この数十年の間に、多くのアーティストたちによって美学・芸術に興味深い見解を投げかけながらその勢いを増してきました。
しかし、その様式の確立に反して体系的な意義づけはメディアアートの歴史研究、同時代の作品や展示の中での批評的論稿の中にまばらに存在するのみで、Generative Artを主たる対象として扱った論稿は豊かとは言えません。本研究では、Generative Artを取り巻く作家・作品をあげながら、その発展を体系化し、今後の展望を示すことを目的とします。

2. 作品制作

Generative Artという様式に立脚した作品を制作します。主題選択 / 描画アルゴリズム / 提示方法を明らかにしこれまでの歴史との関係性を明らかにします。おもな主題として欝・発達障害、そこからくる自死といった社会的病理を扱います。データビジュアライゼーション、ヴァーチャル・リアリティ、リアルタイムオーディオ・ヴィジュアル、といった方法論を参照します。

Generative Artの定義

アーティストにして、Generative Artの著者Matt Pearsonは、

“The beauty of a flying creature is not improved by pinning to a board by its wings, and to my mind digital art is currently one such delicate, emergent lifeform, one which requires very careful handling”
(「空を飛ぶ動物の美しさは、その羽根をボードにピンで留めることによって発展したりはしません。私にとってデジタル・アートも、それと同じように今日において繊細ではかない生命体であり非常に慎重に扱わなければならないものです。」)[1]

として、その定義を意図的にすべきでないとしています。私もこれには同意します。しかし、観点をがあることで批評もしくはアーティストの活動にコンテキストを与えそれを超越する助けとなることも事実です。ここではジェネラティブアートの定義を、Philip Galanterのテキストに拠ることとします。

“Generative art refers to any art practice where the artist uses a system, such as a set of natural language rules, a computer program, a machine, or other procedural invention, which is set into motion with some degree of autonomy contributing to or resulting in a completed work of art”
(「自然言語、コンピュータプログラム、計算機、その他の手続き的発明といった”System”を用いた芸術実践をさす。そのシステムはある種の自律性によって動的に変化し、芸術作品に寄与、または帰着するものである。」)[2]

この定義は、どのようにつくられるかのみ言及し、成果のフォーマットの特定はしていないし、特定の技術パラダイムと結びついてもいません。唯一、自律的に動作する自己完結型でなければならないとしています。定義に則れば、”Gnereative Art”はその言葉が使われはじめる以前、さらにはコンピュータが誕生する以前から存在していることになります。

Casy Reas と Chandler McWilliams は手続きを”Code”、生成されるものを”Form”としています。(文字通り、”Form+Code”というタイトルの書籍でGenerative Artやパラメトリックデザインのアウトラインを説明しています。)[3] 以降、私もこの呼称に倣うこととします。しかし、逆説的にその言葉の選択によって、多くの生成手続きは「コンピュータ上で」動作するプログラムであり、出力は具象的な「形」に重きを置くことを暗示します。

参照領域


先のPhilip Galanterのテキストによると、Generative Artの主な領域に「電子音楽とアルゴリズミックコンポジション」、「コンピュータ・グラフィクスおよびアニメーション」、「デモシーンおよびVJカルチャー」、「商業デザインと建築」といったカテゴリが挙げられるとしています。しかし本研究では視覚表現に重点を置くため、「データ可視化」、「オーディオ・ヴィジュアル」、「数学図像」、「デモシーン」、「視覚表現以外」という分類で関係領域を分析します。

データ可視化 Data Visualisation

データを「知覚可能」にするための審美的手段です。この領域はアートというよりは極めて実用に近い領域です。しかし、逆にアートのような視覚表現と実用的なデザインの境目を曖昧にした1つの領域であるとも言えます。W.Bradford Paley、Aaron Koblin、Ben Fry、Chris Harrisonといった優れたアーティスト/デザイナーの作品は、実用における有用度という観点よりも、直感的に認知しづらいものを優れた技量により可視化させ、かつその結果が審美的に非常に美しいことに着目すべきです。またAlloSphere[4]という驚異的なプロジェクトの存在は、Data Visualisationという領域に対する科学だけでなく芸術的手段への期待の大きさを示しています。

オーディオ・ヴィジュアル Audio Visual

音楽および音楽理論がもたらす調和、快感情・陶酔感は、芸術家に大きな影響を与えています。
20世紀初頭から、構成主義の画家は音楽の構造的調和をインスピレーションとして視覚表現を行い、例えばPaul KleeやWassily Kandinskyは色を音階のメタファ、形を音色のメタファとしています。その関係は作家の恣意性に依拠しながらも、確かに音楽的な比喩なしではそれらの作品を語りえないというような気にさせてしまいます。KandinskyやKleeの絵を評するとき、リズム、ハーモニーといった言葉を使いたくなります。また、逆に多くの音楽家も彼らの絵かもインスピレーションを受けていることからも彼らの作品は表現的に成功していると言えます。
音楽と視覚表現の往還は時を経ると、メディア技術の進展に伴い、文字通り融合します。Whitney兄弟の初期のCG作品[5]から、Robert HodginによるiTunesビジュアライザ[6]といった傑出した作品にその系譜を見て取れます。
最もメディアに載って普及したオーディオ・ヴィジュアルの実践はミュージックビデオです。この分野において、大西景太によるハイスイノナサのMV「地下鉄の動態」[7]は音を丁寧に可視化した作品として言及しておきます。

KandinskyはSynaesthesia(共感覚)という言葉を用いて感覚の統合、つまり視覚的に音楽を見ること、また聴覚的に絵を聞くことの可能性を示しましたが、この考えもまた、多くのアーティストに影響を与えました。音、映像を、高度に結びつけて視聴覚的な快感情を生むゲームRezシリーズはゲームという媒体でリリースしていながらも、その芸術性の高さが評価されています[8]。そのプロデューサー水口哲也は、自身の作品説明でKandinskyと”Syneasthesia”という言葉を参照しています[9]。

またVJカルチャーは、実験映像や若者駆動によるクラブカルチャー、非アカデミック・非商業の野生の行きた表現といった多くの要素を持ち、現在進行系で多くのアーティストの実験の場として機能しています。

数学図像 Math Art

ある関数の結果をグラフに描画するだけでも審美的に美しいと感じることがあります。
正円、リサジュー曲線、対数螺旋はその典型でありますが、一般的に対称性、整数比、超越関数(三角関数、自然対数等)など、単純な数学的規則の視覚的結果は美しく感じられます。おそらく、人間の認知する対象が、ほぼ全てプリミティブな数学的形状の派生であるからだと考えられます。

またコンピュータの発展に並走して、フラクタルやカオスといった非線形科学の可視化と認識が可能となったことは特筆すべきです。Benoît B. Mandelbrotによるフラクタルの提唱、Edward Norton Lorenzによる非線形力学の提唱は、コンピュータの計算能力に支えられアーティストに多くの影響を与えました。初期のCGデモは、こうした非線形の領域の幾分サイケデリックな図像が席巻しました。
1990年代後半以降、写実的なCGの進展でこうした動きは落ち着きを見せるものの、木本圭子、Scott Draveは2000年台初頭以降における特筆すべき作家です。木本圭子は、複素平面のベクトル場におけるパーティクルシミュレーションのアニメーションを作品化し、その驚くべき多様性や幻想的な美によって高い評価を得ました[10]。また、Scott Draveは、反復関数系Flame[11]を提唱しました。これは、反復させる関数のパラメータである行列成分の組み合わせに過ぎないものの、驚くべき多様性を持ちます。OpenSourceであることもあいまって、Adobe Photoshopのプラグイン[12]、After Effectsのプラグイン[13]がリリースされ、多くのグラフィックに利用されました。これらのツールによってレンダリングされた動画類は今でも大きな驚きとともに動画サイトで再生されています。

デモシーン Demo Scene

Demo Sceneはゲームコンソールをハッキングして、独自の”intro”を挿入してそれをシェアしあう、いわばサブカルチャーとして始まりました。その文化は現在に至るまで拡大を続け、世界的にDemoパーティと呼ばれるギークカルチャーとして発展しています。
しかしその活動は、コンソールゲームのハッキングから、徐々にPCのマシンスペックの限界にせまる競技的な側面を持ちはじめます。その一例として、ファイルサイズを極めて小さくしながら高精細ののリアルタイムレンダリングによるCGアートを作成し、その技巧的なレベルを競います。(投票による順位づけをおこなっています。)この文化も完全に在野、非組織的であるにも関わらず、Siggraphや企業の研究よりも先んじる突出したCGアートを出現させてきました。
上記の数学図像の範疇であるフラクタルはこうした文化において恰好のモチーフです。ジュリア集合の概念(Escape-time algorithm)を3次元に応用させ、MandelboxやMandelobulbといった荘厳な図形を発見し、クオリティの高いレンダリングを実現したのもこうしたカルチャーに属するギーク達の成果です。視覚表現だけでなく、音楽までもこうしたエクストリームプログラミングで生成しているものもあります。

視覚表現以外

音楽においては、奏でられる音(つまり”Form”)の審美性よりも、作曲における知的操作(つまり”Code”)それ自体に着目した先鋭的な生成的表現が、ミュージック・コンクレート、初期の電子音楽において打ち出され、視覚芸術よりも先行しています。音をサイン波から合成していくSound Synthesis (音響合成)は最も根源的かつ代表的な音の生成的表現で、シンセサイザーやMax/MSPといったコンピュータ上で動作するオーディオアプリケーションの登場によってさらに進化を加速させています。
建築やプロダクトデザインにおいても、Generative Artが高度なエンジニアリングによって社会や人間の生活の場に実装される領域として興味深い事例が多くあります。

Generative Artの問題点/可能性

問題点の指摘は裏を返すと可能性の発見でもあります。ここでは、Generatve Artが内包する批評されるべき側面と、それを受けての可能性を示します。

人間の認知の限界、過信

コンピュータとともにある時代の芸術表現の可能性を多く示唆しましたが、同時に人間の認知的問題の限界も示してもいます。複雑系のグラフィックへの批評的な文脈において、久保田晃弘は以下のように述べています。

”一見複雑に見える自然や宇宙の構造には、シンプルな規則性や首尾一貫性が隠れており、それ故に美しい、と思わずいってしまいがちなのはどうしてなのだろう? そのことがどこかに書かれていたとでもいうのだろうか? 人智を超えた存在にその記述者の役割を押し付けることはたやすいが、実はそんな記述者の存在を仮定する必要もなく、それはただ単に、私たち人間の認知的な制約の言い換えに過ぎないのではないか。”[14]

つまり、こうした規則を以てレンダリングされた表現に対して自然の構造や美を読み込むことは人間の認知的制約の裏返しであるとしています。それにも関わらず、Generative Artが生み出す複雑で壮麗なレンダリング結果に対して、人間は未知の事象を早晩ことごとく解明し、可視化することができるのだという誤った希望を与えてしまいがちです。彼らにとっては、宇宙は”Generative System”であるのです。[15] これは、科学技術の発展がもたらす過信であり、こうした過信は過去の歴史を参照した時に幾分の危惧を感じざるを得ません。

主題性の本質的限定

GenerativeArtは、一般的に具象ではなく抽象画として働き、いかなる寓意をして抽象することも可能です。同時に、他の絵画手法よりも、数量を重ねることが得意であるため、その描画結果から自然法則への敬意、宗教的な寓意になりえるし、その圧倒的な計算や描画の物量から崇高という美的概念を引き合いに出すことも可能です。
実質的に、いかなる主張をする場合も”Code”はメタファとして機能します。例えば、点と点を結ぶという”Code”は、つながり、結束を意味します。データビジュアライズは、こうしたメタファの実用でもあります。
一方でアルゴリズム自体は協力なルールの適用であるため、それ自体が強制や不可避の支配を彷彿とさせます。Generative Artは、たとえどんなに乱数を使っていたとしても、たとえどんなに個人の認知の限界を超えていたとしても、処理手続きと逐次計算という秩序によって生成されているため、限りなくアポロン的な性格を持っています。本質的に予測可能であり、混沌や矛盾といったディオニュソス的側面は排除されるのです。

しかしながら、出力された”Form”はディオニュソスのメタファとして働きます。その実装方法の本質はどうであれ、出力結果にメタファを付与することはできますし、人間の認知が勝手にそうさせることもあるでしょう。この点においては、Generative Artの本質ではなく、抽象画であるといえます。おそらくこの指摘はハードなGenerative原理主義者に反駁を受けるでしょう。

脚注

[1] ”Novelty Waves: A Short Book About Digital Art”, Matt Pearson, The Big Hand/LeanPub, 2014.
[2] What is Generative Art? Complexity as a Context for Art Theory.
[3] ”FORM+CODE デザイン/アート/建築における、かたちとコード”, ケイシー・リース/チャンドラー・マクウィリアムス, ビー・エヌ・エヌ新社, 2011.
[4] http://www.allosphere.ucsb.edu/
[5] John Whitney と James Whitney。二人の作品はYouTubeに閲覧できるものがある。
[6http://roberthodgin.com/portfolio/work/magnetosphere/
[7http://www.onishikeita.com/subway.html
[8] 2001年PlayStation2ゲームとしてリリースされた”Rez”は2002年の第6回メディア芸術祭で功労賞を獲得し、2016年PlayStation3、PSVRゲームとしてリリースされた”Rez Infinite”は2016年の第20回メディア芸術祭で審査員回推薦作品に選定されている。
[9] TEDxTokyoでの講演内容
[10] 平成18年度(第10回)文化庁メディア芸術祭では、アート部門大賞を受賞
[11] Fractal Flame
[12Apophysis
[13] AE Flame
[14] ”遙かなる他者のためのデザイン 久保田晃弘の思索と実装”, 久保田晃弘, ビー・エヌ・エヌ新社, 2017.
[15] 註[2] に同じ