本稿は、データビジュアライズにおけるリサーチを兼ねて個人的な作品の分類とその批評をまとめたものです。自作品のサポートとしての修士研究のための整理でものあるので恣意的かつ定量的根拠のあるものではないのですが、インターネット上に公開することで何か反応がありつつ議論に奥行きが生まれること期待しつつ記事として公開します。
目次
Data Visualization
Data Driven Art
1. Data Sculpture
2. Data Dramatization
3. Data Journalism
4. Data Poésie
Data Visualization
数字がずらっと並んでいるエクセルシートは、行列を選択しスイッチ1つ押すだけで棒グラフや円グラフにできる。今現在、棒グラフや円グラフは非常に原始的で陳腐な道具に見えるかもしれないがそれでもなお圧倒的に有用だ。エクセルのグラフ化機能だけでも、数字の羅列を視覚情報に置き換える道具、すなわちデータビジュアライズの力を感じとることができる。複雑な情報を整理/可視化することは実用的なメリットがあることは広く認知され、その成果物として路線図や地図、年表や人体図もその例となりえるとなりえるしビジュアルデザインの成果は情報可視化の歴史であるとも言える。
一方で、グラフ化のような一見単純な加工にも、プラクティカルなマナーが求められ、作成者の技術の差が如実に出るということはあまり議論されない。エクセルなどによる表現の均質化、思考プロセスの省略によって隠蔽されているように思う。
正しくデータを扱うためには数値と統計のリテラシーが求められる。Edward Tufte はそれらのスキルセットについて非常にわかりやすく論じている。彼の教訓のひとつに「データ:インク」がある [1] 。使ったインクに対して有効データはどの程度占めているかの単純な指標である。チャートの補助線や凡例なども含めた情報量、つまり使ったインクの量に対して、有意なデータをどの程度盛り込むか、ということは、図表をシンプルにしながらもデータを多く表現をするという、この領域の技量や審美を示す直接の指標になる。
「これグラフ化しといて〜」といわれても、次元や軸、値域、色などの属性情報をどのようにとるのかはかなりの選択肢があり、多くの判断を伴い、難しい。データはだいたいは離散値であり、かつ多用な属性を持つから、折れ線グラフのような単純な関数的表現にするのも意識的になる必要がある。回帰分析はデータビジュアライズと全くの逆の発想としての抽象化であり、アンスコムの例 のような明らかなその欠陥を補完するものとして、データビジュアライズがあるとも言える。
しかし上記を含むスキルを高いレベルでもってなされた表現は、我々の認知の可能性広げ助けになるという実用的な効用と、一つの「絵」としての美しさを併せ持ち、認知的かつ視覚的な快感情すらひき起こすことがある。数値を数値として提示するよりも圧倒的にわかりやすく、特定の仮設を検証したり理解することは難しくとも、データを「感じる」ことができる。杉浦康平が「時間地図」で示したような既存の認知バイアスを超えた概念の提示を可能とする [2]。可視化の制約を理解し、自由の幅と言い換えた場合に、傑出した表現は生まれ、それは見るものに快感情を与えうる。
Data Visualizationはしばしありのままの現実を表現するのが前提と思われがちであるが、そのようなものは存在しない。どんな可視化においても、伝達・説得をするために、データは加工処理され(ノイズは消され、恣意的な範囲で正規化され)、描画手法/アルゴリズムは綿密に設計されチューニングされている。言い換えると、丹念に編集された情報であり、非常に政治的とも言える。その言葉通り政治やジャーナリズムの道具に非常に適しており多用されている。
優れたデータビジュアライズはジャーナリズム的であり、New York Times の質の高いビジュアライズはそれをよく示す。The Death of a Terrorist: A Turning Point? や Four Ways to Slice Obama’s 2013 Budget Proposal といった記事は、ジャーナリズム的な切り口の良さもさることながら、可視化方法(色彩選択や細かなインタラクションデザインなど全ての意匠)に卓抜した技術を感じざるを得ない。余談であるが、この老舗新聞社はChris Wiggins率いるData Scienceのチームを持ちバックエンドや数理モデルから一貫して内製できる体制を持つ。またよくデザインされたAPIも公開しており、アーティストのJer ThorpはこのAPIを使って優れた可視化作品を作っている。
Data Driven Art
以下の動画は、データ表現をアートをつかうことの意図を伺うことができる。単に、印象に強く残すためという目的を述べる人物もいたり、データ可視化に情緒的・文化的背景を織り込む点を指摘している人物もいたりする。
言うまでもなくコンピュータの普及はこうした表現を加速させた。データの処理と描画手順をプログラムとして自由に記述できるようになったことで、可視化の表現の可能性は広がった。こうして生まれた視覚的に新しい可視化表現は「アート」として理解されうる余地が生まれ、可視化を実装したプログラマやサイエンティストは「アーティスト」と名乗れるようにもなった。その背景には以下のような要因があると考えられる。
- データの可視化が視覚的に美しい結果になりえる点
- 可視化自体が、ルネサンス期絵画の写実のように再現性ある魔法的な技能である点
- 情報の可視化(=暴露)が政治的かつ挑戦的なメッセージになりえる点
Data Visualizationの中でも、とりわけアート的な表現を総称するジャンルとして Data Driven Art がある。またさらに、以下の項目を下位カテゴリーとして例証することを試みたい。”Data Sculpture”, “Data Dramatization”, “Data Journalism”は上記3つの背景項目と対応している。また最後に、Data Visualizationをさらにコミュニケーションメディアの1つとしてメタ化した”Data Poésie”を付け加えたい。
1. Data Sculpture
データの可視化結果が審美的に美しくなり得ることは想像に難しくなく、ともすれば自然の中の形状、分布、力学的調和に類するものは美的なものとしてと認知されうる。有意なデータは美しく(美しいと認知するよう人間がすでに調教されているから)、無秩序なデータは美しくない。言い換えると、美しくないデータはデータでなくノイズである。また、構造化し、関連付け、整理するということの行為と可視化それ自体も視覚的/概念的に美しいものであるといえる。
コンピュータは、こうしたデータの美の発見と可視化/再現を可能とした。これは技術者も芸術家も衝動的に突き動かしたことは膨大な作例がこれを示している。コンピュータによる新たな造形表現に関しては、Manuel Limaの著作 “Visual Complexity“、Lucy Johnstonの著作 “Digital Handmade” などに詳しい。
3次元の可視化であれば、本来はコンピュータ・グラフィクスによる再現が考えられるが、物質として現実に再現したときに、それ以上のおもしろみがあることは彫刻家にとっては興味深い主題であったように思われる。List of Physical Visualization は通覧する価値がある。コンピュータの普及に続く3Dプリンティングやレーザー加工機の民主化もこうした制作の後押しをしている。Generative DesignやParametric Design、Algorithmic Architectureといった言葉は近接または共有部分を持つ。
2. Data Dramatization
Data Dramatizationはデータを、受け手に強力に印象づけるために脚色し、データ自体を魅力的にすることである。ニューメディアアーティストのMemo Aktenがこの言葉を紹介している。彼の代表作”Forms“は象徴的なData Dramataizationの作品であると言える。データやアルゴリズムそれ自体を主題とし、それを洗練された意匠で表現することであると理解できる。その背景には、センサー技術の普及によるデータの収集/キャプチャが可能になったことがあげられる。シンプルかつビジネスライクなデータ表現のアンチテーゼでもあり、ルネサンスに対するバロックのような華やかさがある。
象徴的な作例として以下の2作品を紹介する。
Refik Anadol “Wind of Boston : Data Paintings”
Refik AnadolのData Paintingsの連作は、都市の風のデータをリアルタイムに取得し、それを非常に優美な3Dアニメーションとしてリアルタイム出力している。高解像度ディスプレイに、洗練された色彩と有機的な形状、フォトリアルな質感表現も相まって、鑑賞者に強い印象を残す。(私は、本作のLinzバージョンをArs Electronica Festival 2017で鑑賞した。)しかし、これがもはや風のデータであることに意味がなく、入力値として2次元のベクトル場を取得できれば、おそらく美しい絵が出力される。この点でデータそれ自体よりも「ドラマ化」自体に作品のテーマがある。
Ryoji Ikeda “datamatics”
Ryoji Ikedaの”datamatics“はさらに恐ろしい作品である。データを主題としながらも、そのデータにおそらく意味はない(少なくとも鑑賞者には知らされない)。「膨大なデータっぽいもの」を表現しているが、音響とインスタレーションの意匠的完成度は圧倒的であるために、そこに意味を勝手に読み込んでしまうほどの説得力がある。感動を覚えるには十分である。途方も無いスケール感に、ロマン主義的な畏怖・畏敬をあらわす崇高という言葉がよぎる。しかし、その「膨大なデータっぽいもの」それ自体はおそらく何でもよい。圧倒的な脚色の力に脱帽するのみだ。データ表現の「演出」の最高峰であると言える。
ここには可能性と同時に決定的な課題がある。最も批判的な言葉を使えば、これらは単なるEye Candyでしかない。内容を伴わないデータにもかかわらず、ただ感情的に訴えかけ印象づけることを目的としている。前項で紹介したEdward Tufteの論じる「データ:インク」の数値は極めて低い。しかし、肯定的な言葉に言い換えると、視覚的/音響的美のみをストイックにこだわり抜き高い技術でそれを実装し、政治性を排除することで普遍的な美を志向していると言える。だからこそ、アートの批評的文脈など知らなくとも万人が楽しむことができ、それは価値のあることだ。Data Driven Artという扱いづらい美術形式でも、アートマーケットに受容され、額縁に収まり、瀟洒なビルのファサードやエントランスホールを飾ることができるのだ。
3. Data Journalism
データを通して特定の主張やメッセージを語らせるポリティカルな行為としての可視化を指して用いる。体裁は一般的なData Visualizationであるが、ジャーナリズム的な主題選択と政治的なデータの加工によって、明確なメッセージ(ポジショントーク)を語るものである。このように書くと中立さを欠いた未熟なデータ表現に感じるかもしれないが、優れた作品は多くある。
橋本公 “1945-1998”
橋本公の”1945-1998″は、シンプルな地図上における時系列の可視化表現であるが、広島と長崎に点がプロットされることで、主題が明らかになる。リッチなビジュアルコミュニケーションではないけれど、未来がどうなっていくのか、またわれわれは何を議論すべきなのかを明確に訴えかけている。
Ingo Günther “WolrdProcessor”
Ingo Güntherによる”WolrdProcessor“は、日独のジャーナリズム活動の中で集めた衛生データを含む様々な情報を、地球儀上に表現した作品である。制作された地球儀の数は1,000を超える。どれもが事実の告発をするという野心が感じられる。以下の動画では、水俣からの水銀による海洋汚染や土壌汚染の広がりを示す地球儀が紹介されている。こうした可視化は3.11以降にも頻繁に見られる。
Qosmo “Latent Future – 潜在する未来”
Qosmoによる”The Latent Future – 潜在する未来“も同様にこの文脈の中で紹介することができる。本作は、記事データの学習済みAIが、ありそうな記事の見出しを生成しグラフィックとして表示するものである。一見、現実化しないであろうと思われるディストピア的な見出しが生成されるが、信じがたい事件や政治決定が実際に起こり得てしまう世相であることを我々に再認識させる。一方で、記事の見出しの生成が、音響とグラフィクスにより「ドラマタイズ」されていることも指摘しておかねばならない。この面も含めて、同時代(2017年現在)のスナップショット的な作品である。
4. Data Poésie
最後に付加的に付け加えるカテゴリーは上記の3つとは一線を画すものだ。データを政治的に使うものでもなく、脚色もほぼ排して、データの可視化それ自体をコンピュータ以降のひとつのコミュニケーションメディアとしてとらえた作品や試みが実際にある。それらはデータの取扱いをひとつの言語における修辞と対比させ、詩的な情緒や奥行きを表現するものである。
松井茂の”量子詩“は、この一つの例だ。本作は、複数の詩集や展示といった形体で提示されてきた。「言葉で作られたものが、詩作品である」という公理に対する逆の発想から、自然言語の文法ルールとは異なる、より単純な規則で表現された言語/非言語表現を詩作品として提示している。ときには、その結果が文字の羅列にもなるし、ときにはグラフにもなる。コンピュータ以降、ポスト・ヒューマン的な発想で芸術表現が行われた場合を予言していると言うと大げさかもしれないが、データ的表現における新しいpoésieを強く印象づけている作品だ。
次に紹介するのはGiorgia LupiとStefanie Posavecによる”Dear Data“というプロジェクトで、2人のデザイナーが手紙にデータ表現を行う文通である。表面には凡例、裏面には手書きでビジュアライズを描き、日記的な内容を非言語で表現する。シンプルな発想であるものの、手書きのデータ表現は確かな情緒、表現としての奥行きを感じざるを得ない。また、これまでに行われてきた(あまりに政治的、もしくはあまりに装飾的)データ表現に対して、脱力を促すような批評を託すこともできる。
脚注
[1] “The Visual Display of Quantitative Information” second edtion, Edward R. Tufte, Graphics Press, 2001.
[2] 『時間のヒダ、空間のシワ…[時間地図]の試み: 杉浦康平のダイアグラム・コレクション』、杉浦康平/多木浩二/プラスアイズ/村山恒夫/hclab./白井宏昌/松本保美、鹿島出版会、2014。