ビジュアル・アートは、その作品自体が議論の対象であり、基本的には実装された機能とその発揮(鑑賞者とのインタラクション)が第一かつ唯一の意義である。一方で、それを批評し歴史的価値を認めるということは、第二の付加的な作業である。この仕事は基本的には批評家や歴史家がその高度な専門職であるが、作家によっても自己批評はなされる。

様々な美学的議論を経た同時代において、作品にどのような言説を展開するかは判断が難しい。とはいえ最も不毛な試みは、それがいかに「芸術」に帰属するかの説明であるように思える。なぜならば、芸術であるか否かの境界や芸術の定義は、それ自体の定義不可能性によって定義づけられているからだ。Arthur C. Dantoは芸術の定義における問題に丁寧な説明をし成果をあげたものの、それはポップ・アートの理論的擁護(Andy Warholの”Brillo Box”を芸術に帰属させるための説明)に捧げられている。「芸術」のためだけの議論は領域が閉じておりレトリックと過去参照の範疇である。A. WarholやM. Duchampの作品がいかに芸術に帰属するかの議論は、美術史体系の外から生まれた諸活動の価値説明に参入しづらい。例えばPixivというコミュニティで生まれるイラスト群の同時代に対する影響力、Christian Lassenの作品によって喚起された議論、コンピュータや遺伝子工学がもたらすポスト・ヒューマン的問いかけ、もしくは楽観的技術観への批判的な活動全般、こうした問題に対して批評(社会との接点や価値の議論)を行うには美術史が回り道になってしまうことがある。芸術の議論は作家や鑑賞者の普段の思考、直感的な認識と多少なり乖離があることは認めなければならない。

それよりも重要なことは、その表現がいかに過去、同時代、未来と接続されるかの宣言である。それは必ずしも「芸術」に関わらなくとも良い。John A. Walkerらによって提唱された「ヴィジュアル・カルチャー・スタディーズ」という考えは、創作にまつわる価値評価についてより具体的で納得感のある示唆を与える。これは、記号的なイメージが人間主体に及ぼす政治的・社会的作用力と批判力を分析し、さらにその研究主体にも反省を促す試みでもある。美術史という体系はその一つの接点にすぎない。もし芸術にまつわる教育を出自とした作家活動で、芸術という循環を内包するコンセプトのみを参照して作品の価値を説明するのはかなり危うい。逆に他領域との接点の自覚と参照の明示およびそれらの客観的批評は、作品の自立に大きく寄与する。

ある程度の強度のある作品であれば、ほぼ無限に説明を付加することが可能である。鑑賞者は、社会や文化との接点を無数に直感することができる。作者による鑑賞者の認知の設計が機能している作品は自立しているということになる。説明や批評は、作品を自立させるための一つの設計であり、副次的に芸術であることの宣言にもなる。逆に、もし単純なモチーフにレトリックを丹念に練り上げたとしても、その価値はごく一部にしか通じない。作家の慰みにこそなれども(それはそれで重要なモチベーションであるが)、圧倒的多数のジャンクにすら駆逐され批判すらされず、そこには何もなかったことになる。制作されたもののモチーフ、表象、様式、レトリックの構造が鑑賞者によって内面化できうるよう意匠を考えることは意義がある。