Processing Community Day Tokyoを主催したことについてまとめておこうと思う。
久しぶりに制作やコーディング以外の雑務に多少なりとも追われた日々であったが、運営の立場から見えてくる景色はとても格別だった。自分がよびたい講師を呼んでイベントをするというのは企画者にとってのプリミティブなエゴであり自分自身も当然モチベーションとして意識した。自分が関わりたかった人物を集めて共有したいテーマ(Creative CodingやGenerative Artなど)で踏み込んで話をできたということにおいてこれ以上幸せなことはないと思う。PCDという世界同時発生的に自主企画することが奨励されているビッグウェーブをうまいこと利用し多忙な方々の時間を拘束できたわけである。
結果的にではあるが、おのおのの参加者も意味を感じ取っていただけたように見えたのは嬉しいことだ。参加者の方々から少なからず直接開催について感謝のお言葉を頂いたが、その言葉それ自体に私自身も感謝を申し上げたい。当事者のバイアスもあるがイベントの質は概ねよかったように見える。120枚のチケットが2日とたたず完売したことから、前評判の高さ、Processing周辺のコミュニティへの注目が伺える。
とはいえ運営すべてがうまく運んだとは断言できず、不備不足は多々あったのでその点は別途反省の余地がある。(少しだけ具体的にいうと、設営上の注意等のやりとりで会場側スタッフとの情報伝達の不足で問題がでた。古巣の甘えもむなしくY! Lodgeは今後私名義でイベントを受け入れてくれるかは厳しいかもしれない…)
というような内々のドタバタやあったものの、イベントそれ自体は総じて雰囲気は良く、瞬間的にでもProcessingを通して創造性やモチベーションの交換や波及を体感できたし、その後のインターネット上の記述も少なからず観測した。(junkiyoshi さんのこの文章や、ナカジさんのこの文章などはお気に入り。)初級者から熟練者まで、裾野の広い知的交流の場となったように思う。単に知識を得たりサンプルを動かすのではなく、どういった問題意識の中でどういった議論があるのかまで共有できていたように思う。
発表
講演者の内容はどれもすばらしく、そのおもしろさを列挙するときりがないので、上記のアーカイブを参照していただきたい。
久保田先生や巴山先生のセッションで共通するのは、プログラムによって出力する類の制作では、プログラミングの体験それ自体に興味が収斂しがちなところから論を進めて、単なる図像出力から考察とともに昇華させられうるかの可能性(と同時に課題も)に言及していたという点であり、ここで展開された議論はその日を印象づけた。
ライトニングトークは、概して着眼点や実装において独自性が高く、内発的な興味を追求することにモチベーションがあるように聞こえた。同時に、想像もしていなかった話題が続出し私自身も新鮮な気持ちで興味深く聞いた。例えば、佐藤正範さんの小学校の教育者目線での言語仕様のありかたについての言及や、浅野桜さんのデザイナー視点からみたコーディングでの図像出力に対するスタンスの表明は、LTの主題をより多様なものにしていたと思う。
WSは、映像記録はないけれど全ドキュメントを公開されているという大判振るまいで、知識や経験として学べる中でも輝きがあるネタが満載であり、実利的にも価値があった。実は、依頼した講師の一部には、講師経験が全くない方がいらっしゃったが、その実装とアイディアの巧をこそシェアされるに足るので、無理を承知でお願いした。今回共ににワークショップを実現した面々とはまた何かの機会でイベントを一緒に企画したいと強く思う。
キーノート、ワークショップ、ライトニングトークの発表資料は観測できうる限りでこちらにまとめてある。
イベント運営の難しさ
稗田さんも言及しているように、
- オープンさ: 敷居が低い、バリア(性差や障害による困難さ含む)を極力なくす
- 専門性: 高いレベルのプレーヤーが知的に楽しめ、先々につながるような交流ができる
ということの両軸のバランスの意識が、運営の中でよく話題にあがった。こうしたことは個人的に呼びたかった講師やスピーカーを招聘する中で、自然と最適解におさまったように見えた。Processing自体の出自が、オープンソースであり、プログラムによる情報の視覚化を教育するための道具として開発と更新がおこなわれた経緯がある。だからか、Processingのイベントに共感するタイプの方は、オープンさと専門性の追求といった両輪の意識はすでにそなえているのかもしれない。
イベントをやるには、収支のバランスを事前によくシミュレートする必要がある。運営や講師が疲弊するような体質では、イベント自体の質に大きく損なう。規模を上げるとそれに付随して調整すべき項目も増えてくるので、コストはおさえつつも必要事項の管理が十分できるような体制ができると良い。発祥地アメリカでは、Processing Foundationを中心に支援団体や様々な教育機関(大学やSFPCのような私塾?)がそれぞれ役割を分担しているように見える。こうした団体は、公的に集めた資金をさらに公的に使うような使命と意識があるように思うので、PCDのようなオープンソースカルチャーのコミュニティイベントの運営自体にはポジティブにお金を動かせると思われる。
チケット収益は基本的に講師の招聘にかかる費用と運営にかかる備品などの諸経費に充てられた。今回の運営はすべてがWeb制作から当日の運営まで(教授職も学生も会社員もフリーランサーも関係なく)ボランティアで参与したことが、会自体を下支えした。協力いただいたボランティアの皆々様には非常に感謝しているが、感謝の気持ちを述べることしかできないのは少し心苦しいし、中長期的なものとするならば少しばかり構造自体に不安も残る。
広い意味での運営資金の調達において、1)スポンサーをつのる、2)チケット代を限界まで上げる、3)イベントから派生したコンテンツなどで収益を得る ということで運営の体力は改善される可能性があるし、そうすべきだが、それによってイベントの質や議論できる主題に変化が起こるので、容易には決断ができないだろう。
一方で、デザインとプログラミング株式会社(ペンプロッターを供出してくださった)や、ビー・エヌ・エヌ新社 (関連書籍のディスプレイをしていただいた)には、特別な形で協力いただき盛り上げくださった。その点、柔軟な企業団体への協力のお願いの仕方は多様にあるのではないかという端緒を感じた。
講師らはコミュニティに資するような発表の場に対しての参与意識は、(謝金の金額にもかかわらず)非常にポジティブであった。とくに学会などに参加するアカデミアの人たちは、学会に(しばし高額な)参加費を払った上で発表をするので、こうした場には無料でも登壇できるような習慣や慣例があるように感じられた。他方、若手のプレーヤーにとっては、講師業は考えをまとめたり後進に積極的に知識をシェアする意味でキャリアにポジティブな側面を見いだせるし宣伝効果的な実利的なメリットもあるのの、資料作成等の実働時間が大幅に謝礼金額を上回り赤字覚悟が前提であり、経済的に長期続けたり専心するのは不可能に見える。それ以外の主たる活動と収入がないと継続的に受けるのは難しいだろう。大学の講師職ではこうしたテーマはよくあがるかもしれない。
こうした課題に問題意識とモチベーションのある人は、ぜひ今後のイベントの運営にたずさわっていただきたいと願う。とはいえ案外効率よくさわやかにイベントをまわしている人は世の中には少なからずいらっしゃるし、そういった人たちの活躍の場はたくさんあると思う。
最後に
本来は、Processingについてトピックにこそ深掘りすべきだが、本記事は自分が主に見た景色を中心に記述した。PCDで喚起された興味深い話題はまた別の機会に深掘りしていきたい。
個人的にも、こうしたイベントの運営は積極的に動きたいと思うし、やるからには趣味性を追求し自分のリソースを捧げたい。カルチャーや芸術様式を振り返ったり後押しまたは前進させるような展示やクラブイベントの企画などは小規模なところからでもまた何か企画してみたい。一方で、運営に専心してしまうと、プレーヤー(作品をつくったり、考えをアウトプットする立場)としての自分のエゴが反動で膨れ上がる。そうしたパワー配分も考えていきながら、良い塩梅の活動を模索したい。
※本文中の写真は注記がない限り福島シオンさんが撮影・作成したアルバムから引用している。