芸術はそもそも何であるか。この問に答えるのは難しい。芸術には必ず作者がいるから、作家は「誰のため」に作品をつくるのかという問いは比較的まとめやすいと言える。ここではその分類を試みたい。

第一に、作家自分自身のためだ。おそらくどの作家もまずは、自分の内なる創作欲求に答えるために、活動を始める。人間は何かを発明し具現化したときに自身の価値を外部化し快感情を得ることはH.ベルクソンが述べた。創ることは、本来楽しいことであり、自分を助け救う。習慣的な手遊びなど、本人がそうと自覚していない場合もある。ともあれ、自分の価値を発揮し、外部化する手段としてものをつくる。その成果物は芸術の原初的な形態だ。
自分のためだけの創作物は廃棄されやすい。他者にとってはガラクタだからだ。しかし、逆説的にそれは価値にもなる。アール・ブリュットもしくは少数民族の手遊び的工芸のような純粋な制作物は、これまで美術史として語られてきた文脈と切り離されている無垢なものとして「新しい芸術」としての価値が見出される。この時点で、制作者の意図を超えて、他者のための作品となってしまっている。

第二は、他者(鑑賞者)のためだ。だが、鑑賞者のための制作というのは、実は何も言っていないに等しい。なぜなら、ものをつくる上で鑑賞者は必ず存在するからだ。強いていうならば、制作は他者と共有するための装置、外部化であるという芸術の特性を言い換えているに過ぎない。よって以下は、この他者(鑑賞者)の分類・詳細化でもある。もし鑑賞者の属性や展示する場所が特定される場合、それは後述のクライアントと言い換えられる可能性が高い。

第三は依頼主(クライアント)のためである。これは第二の他者に包含される。制作の目的がクライアントのためになったとき、そこに機能要求が加わるために狭義の「芸術性」は希薄になるが、そうではない芸術はもはや存在しづらい。クライアントの種類も多岐にわたる。報酬の有無は適格な区分ではない。たとえば、サロンやコンペのための制作、家族や恋人のためといった創作、恵まれない子供たちのため、祖国の民族性を鼓舞するため、腐敗政治を糾弾する(政治的弱者を代弁する)ため創作は全て仮想の依頼主を想定した請負仕事に含まれると言える。どれも他者の関係を意識し目的を達成するための意図および実装された機能がある。歴史に残った作品は、総じてクライアント・ワークである可能性が高い。アルタミラ洞窟の壁画の時点で、動植物など周囲の環境に対して霊的な感情を喚起するための装置としての機能を持っていたと考えられている。J.ホイジンガは、余剰生産によって生活に必需ではないものを創り・享受し、遊ぶことができるようになり、その総体が文化と芸術史であるとした。

第四は、同時代の思想のためである。この項目は第三の依頼主に内包されるが対象の実体はなく非常に主観的な他者でもある。現在、人間の歴史の総体に貢献するということが文化的な美徳とされるのはある種の「宗教的」信仰である。少し前は、民族性を鼓舞するものが美徳とされたし、さらにそれより遡れば「神」のための制作があった。現在は、構造主義的文化史観や人種平等主義、マイノリティの視座等が、信仰の対象となりやすい。そもそも「芸術」という言葉とそこから派生する言説一般は「宗教」として相対化できる可能性がある。
作家の中には人間の創作活動の歴史を継承/更新するのだという野望を持つ者が少なからずいる。ギャラリストやキュレーターのような高度な芸術の従事者はそうした作家を発見もしくはでっちあげようとする。彼らは、過去作品に対するリサーチや作家の活動の客観的な位置づけに余年がない。M.デュシャンの「泉」は、(本人の意思とは無関係ではあるが)美術史を更新する作品であると評価され、結果どの文化圏の教科書にも等しく図版が記載されるようになった。本作を起点に、芸術においては、いかに過去や同時代を批評/批判するかということが重要になっていった(とするのが今の美術史的解釈である)。H.ベッカーは「アート・ワールド」という境界をあらわす象徴的な言葉によって、美術史や同時代への理論的接続がなされない限りは、芸術という領域に参入していないとした。

大きな分類は以上だ。上記は順番に従って、成熟度は高くなると同時に人間のプリミティブな生物的活動から離れていく。また不可分なものではなく共存しうる。

しかし強調すべきことは、創作において異なる対象と目的はあるけれど、どれも芸術と呼べるし、その点は否定はされえない。芸術であるためには、過去の批評的参照は必要十分条件ではない。ただし否定はされないからこそ、等しく批評にはさらされるし、そうでなければ黙殺と変わりない。つくる、つまり外部化する以上、他者(鑑賞者)の価値基準によって相対的な良し悪しの判断が発生することは受け入れなければならない。芸術を制作する者は、こうした対象へのバランスを十分配慮しながら巧妙に活動を続けているように思われる。